軍歌からラジオ歌謡の時代へ
終戦の玉音放送を聴いたのは、小学5年生の夏休みでした。東部軍管区情報(空襲警報・警戒警報など)の合間には、軍歌や軍国歌謡しか流れてこなかったラジオから、聴きなれない往年の流行歌や演芸が放送されるようになりました。
戦後すぐに流行った「リンゴの唄」のような明るい唄で平和が戻ったことを実感できた反面、戦争を告発し、戦争の傷あとを訴えた「異国の丘」「星の流れに」「長崎の鐘」「あゝモンテンルパの夜は更けて」「ガード下の靴みがき」「岸壁の母」なども大衆の共感を呼んだのです。
昭和25(1950)年6月の朝鮮動乱の勃発によって、金さえ出せば何でも欲しいものが手に入るという軍需景気が起こって、世の中が少しずつ落ちついてくるに従って、家庭では夕食後の団欒でラジオの前に集まり、歌と映画の娯楽雑誌『平凡』の別冊付録の“歌本”を手に、NHKのラジオ歌謡や「リンゴ追分」「ふるさとの灯台」といった、どぎつい表現のない抒情的な歌謡曲を楽しんだものでした。
愛唱されたラジオ歌謡のほとんどはレコード化されました。「山小屋の灯」「白い花の咲く頃」「雪の降る街を」「さくら貝の歌」「あざみの歌」「山のけむり」。どれも健全な作品ばかりでした。
生きる気力を与えた岡晴夫の“励ましの歌”
ラジオやレコードでしか聴いたことのなかったスター歌手の歌声を初めてナマの舞台で聴いたのは“岡晴夫”さんでした。実家のあった川崎の“花月劇場”というキャパ500ほどの小さな実演専門の劇場で、ポスターには「唄いまくる! 岡晴夫ショー」とあり、司会は小西小楽天さん。中学生になりたての私には強烈なインパクトでした。1日3回の公演は毎回立ち見ビッシリの満員つづき。前唄など入れず看板に偽りなし。30曲近くを唄いまくるステージでした。「東京の花売娘」「啼くな小鳩よ」「青春のパラダイス」「憧れのハワイ航路」と相次ぐヒットで他の歌手とは大きく水をあけ、完全な独走態勢に入っていたのです。
私が司会者になってから何度もご一緒しましたが、「川崎花月劇場」で拝聴した当時、サラリーマンの課長クラスの月給が200円前後であった時代に、岡さんのギャラはトップに躍り出て、ワンステージ1万円にはなったと伺いました。
歌声はもちろん、性格もやたらと明るいうえに、その甘い歌声は敗戦の痛みや生活苦にあえぐ庶民の心を慰め、生きる気力を与えてくれたのです。
世の中が暗かったがために、岡さんの“励ましの歌”が喜ばれたのでしょう。鼻唄のようでとっつきのいい調子と唄い易さから大人だけならず、中学生だった私までよく唄ったものでした。
やがて私も高校生。アメリカの西部劇「腰抜け二梃拳銃」を観てからぼちぼち西洋かぶれの兆しがちらつきはじめました。映画「世紀の女王」に出演していた“ルンバの王様・サビア・クーガー楽団*”の虜になってしまうのです。
付け焼き刃の受験勉強でしたが、運よく明治大学へ進学でき、最初の長い夏休みを満喫した昭和27(1952)年、「テネシーワルツ」を日本語で唄った江利チエミさんのSP盤が飛ぶように売れていました。